ウイルスによるパンデミックの影響で、近年私たちを取り巻く社会情勢は目まぐるしく変化しています。これまでの前提を見直し、ゼロから理想の社会について考えるタイミングが来ているのではないでしょうか。

2015年に出版された『ゆっくり、いそげ』(大和書房)は、行き過ぎた資本主義の代替となる、新しい経済の在り方について記した本です。著者は、国分寺にあるクルミドコーヒー/胡桃堂喫茶店店主の影山知明さん。外資コンサルタント・ベンチャーキャピタリストとして活躍したのち、資本主義に潜む「人を手段化」する考え方への違和感からカフェ経営を開始。現在は国分寺の街を中心に、出版、哲学カフェ、地域通貨、書店、田んぼづくり、まちの寮など、理想とする経済循環を生み出す取り組みをされています。

本の初版から6年経ったいま、影山さんは社会の変化をどのように見られているのでしょうか。今回は「人がBeing(在り方)を大切にして生きられる社会」という、私たち編集部が日頃探究しているテーマを元に、影山さんの目指す社会の在り方について聞いてみました。

(影山さんご自身の言葉や、編集部との対談内容をお楽しみいただける、取材時の生音声をYoutubeで公開しています。カフェで収録したために、周囲の音も入っていますが、お店の雰囲気を感じながら聞いていただければと思います。移動中の方や、ながら作業を好まれる方は、こちらからご視聴ください。)

生き残りをかけた、「売り上げを伸ばさない経営」

ー6年前に御著書『ゆっくり、いそげ』を読んだ際は、人を経済の手段として扱わないカフェの経営手法に驚きました。最近の影山さんの取り組みについて教えていただけますか?

この1年は「生き残ること」がテーマでした。多くの人が行動を自粛し、お店の売り上げも減ってしまう中で、どうお店やチームを守っていくかに向き合ってきました。

会社の財務諸表はもともとチームに開示していたので、資金繰りが楽ではない状況はみんな把握してくれていたと思います。そして今年の2月頃にとうとう、「このままだと、給料が払えなくなるかもしれない」という状況にまでなったとき、そのことを社員みんなに話したんです。

経営者の力不足に対する批判がくることも覚悟していましたが、予想以上にみんなは前向きに捉えてくれました。あるスタッフは「状況が良くなるなら、今月の自分の給料はなくても大丈夫です」と言ってくれたり。素晴らしい仲間達と一緒に働けていることに改めて感謝し、肩の荷も少し軽くなる思いでした。

結果的にお給料を払うことはできたのでホッとしました。そしてこの機に行ったチームのみんなとのやりとりを通して、お互いへの敬意や信頼感が増したこと、ときには自分の弱さを表に出してもいいと思えたことは大きな経験でした。

ースタッフの皆さんと一緒に、お店を守ってきたんですね。

そうですね。そうした中で、みんなで探究してきたのは「売り上げを伸ばさない経営」です。

無理な売り上げの追求はどうしてもチームを疲弊させてしまう。ましてやコロナ禍にあって、どうがんばったって右肩上がりの成長は望めない。かといってスタッフの雇用は守りたいし、自分たちの仕事の質も落としたくない。そこで、一つ一つの仕事のやり方や毎日の営業の仕方、一つ一つの経費の支払いについて丁寧に見直していきました。

元々、そのような発想はありました。例えば、毎年12月にはメニューがくるみ尽くしになる「くるみ祭り」を店を挙げてやっています。その時期は、毎日何キロ分もくるみ割りの作業が必要なのですけれど、それを街の仲間に協力してもらってやっています。対価は時給ではなく、お店でも使える地域通貨。それを使えば、手伝ってくれた方は、お金での支払いは一部にして、お店で飲食ができることになります。

これはつまり、街の仲間との関係性が育つと、支払うお金も受け取るお金も減っていくということです。売り上げというのは、事業の成長をはかる一つのものさしでしかないわけです。ですのでこれからは、事業が育てば育つほど売り上げが減っていくことだって起こり得るかもしれない(笑)。それはそれで一つの「持続可能性」のつくり方だと思うのです。

去年の11月には、仲間と一緒にぶんじ寮というまちの寮をオープンさせることもできました。掃除とか簡単な修繕、草取りや畑仕事などをみんなで持ち寄ってやることで家賃は3万円で、その支払いには、街に貢献することで手に入る地域通貨も使える仕組みになっています。ここでも、関係性を育むことで、お金の循環を限定的にしています。

合言葉は、「お金に頼るのを半分にする」。実際にうちのお店のスタッフも住んでくれています。こういう場は、今後どうしてもお給料を増やせないとか、減らさざるを得ないというような状況があったときに、スタッフの雇用や生活を守るためのセーフティネットになってくれると思っています。

どちらの取り組みでも、売り上げと支払いの両方を減らしている。お金ではない形での価値の循環が起こっているということです。「お金を稼がなければ」と思うと、どうしても組織に無理な力がかかり、お金のために人や人間関係を手段化しようとする力学さえ働きかねません。経営における売り上げのウエイトをいかに相対化していけるか。それでいてスタッフの生活の豊かさや安心をどう守っていくか。この一年、向き合ってきたテーマの一つです。

ただ、売り上げが自然と成長していくことはもちろん悪いことではありません。それはそれだけの社会的評価が得られたということでもあるわけですから。状況が変われば、より「攻め」に力をかける局面だって、またあるだろうと思います。ただ、そうしたチャレンジをするにしても、基盤となる地力のようなものがこの一年で、ずい分鍛えられたように感じています。

「ゆっくり、いそげ」は、その気になれば誰でもできる

ー先程の話から、スタッフのみなさんが、カフェを自分ごととして捉えているのだと感じました。そんな素敵な方々を、どのように採用されてるんですか?

僕らの社員の採用基準は、あえて言うなら「そこにいる人」です。飲食業のスキルがあるかどうかとか、コミュニケーションのスキルが高いかどうかとかそういう基準では考えていません。お店のお客さんでいてくださる人など、僕らの日常で関わることのある人と、お互いのタイミングが合った時に声を掛け合って一緒に働くことになる場合が多いんです。

もちろん、「選び抜いた人たちと一緒に仕事をしたら、もっとすごいことができるかもしれない」と思う気持ちもなくはありません。ある物指しで人を見たときに、秀でている人とそうではない人がいるのは、それはそれで厳然たる事実だろうと思います。でも、選び抜いた人で何かを成し遂げたとしても、それは「選び抜いた人たちだから出来た」という指摘からは逃れられない。逆に、今の僕らが何かを成すことができたら「僕らでも出来たんだから、多くの人たちがきっと出来る」って言えるんじゃないかと思うのです。

そうした「普遍性」があるからこそ、ぼくらのようなやり方が広がっていく可能性がある。そうした考え方や方法論を言葉にしてまとめたのが書籍『ゆっくり、いそげ』です。

ー「ゆっくり」と「いそげ」は、矛盾しているように聞こえますが、生産性を追求しすぎず、なおかつ大きなインパクトを生み出す考え方だと解釈しています。「普遍性」が、その矛盾を解く鍵となっているのでしょうか。

よく僕らは「東京スカイツリーではなく、原生林になりたい」という比喩を使います。

大きな資本で価値——人材や資材、更なるお金——をかき集め、一気に高い構造物を作り上げるような経営の在り方が「東京スカイツリー」。その逆に、資本がなくとも、一つひとつの植物が関わり合って、それぞれのいのちがのびのびと花開き、一見無秩序に見えるような生態系のバランスを取りながら、森へと育っていく社会や組織のイメージを「原生林」と表現しています。

植物は、高さ634メートルになることはありません。でも「原生林」の経営が、成果やインパクトを出すことを無視しているわけではない。ドクダミを畑に植えたらあっという間に繁殖するように、植物の生命力はときに圧倒的です。それが「高さ」という物差しに一元化していないだけで、森は森で多方面に芳醇な価値を育んでいる。植物は「ゆっくり」しているように見えて、結果、多元的に大きなインパクトを生み出しているわけです。

僕らの店づくりや街づくりがそうしたモデルの一つになれて、そこに普遍性を感じてくださる方が現れれば、その広がりは加速度的にインパクトを生んでいく可能性だってあると信じています。

「組織」と「人」の上下関係をひっくり返す

ー影山さんが描くような「原生林」が広がることで、どんな社会ができることを理想としていますか。

理想の社会に唯一の正解はないと思いますが、「自由」「安心」「冒険」が言葉として浮かびました。

現代は「自由」であるように見えて、多くの人がお金に縛られています。さらに、人間関係の希薄化によって孤独を感じる方も多い。いざとなった時に誰かが傍にいてくれる「安心」がありません。「自由」と「安心」の土台を整えて、創造的な「冒険」ができる社会がいいのではないかと思っています。

ーなぜ「自由」と「安心」は得づらいのでしょうか。

ムラ型の社会だった頃は、「自由」はないけど「安心」はありました。ムラに所属していれば身は守ってもらえて安心だけど、慣習や規範に従わなくてはならず不自由でもあります。そもそも「関わらない」という自由が認められていませんしね。その不自由さを嫌って、多くの人が都会に移り住みました。

都会は瞬く間に発展し、多くの人がスマホを持ち、ワンルームの部屋に住むようになって、周囲の人と関わる範囲が狭くなった。さらに、SNSの台頭で、気の合う人としか関わらなくなり、その範囲は更に限られた。その結果、誰からも干渉されず、自分のことは自分で決められる「自由」な社会にはなりましたね。

ですが一方では孤立化し、困ったときに頼れる人がまわりにおらず、お金がないと不安という状況ともなっています。そう考えると「自由」であるように見えて、その実、意外と「不自由」な社会なのです。

自分が生きるためにはお金を稼がなければならず、誰かを利用したり、自分に嘘をつかなければいけなくなったりしたとしても仕事はやめられない。上司に文句も言えない。そんな「自由」と「安心」を得づらい社会は、関わる人の範囲を狭めていった結果であって、私たちみんなが作ってきたものでもあると思うんです。

ー「自由」を求めて「安心」を捨てた結果、お金が必要になり、結局「不自由」になった。どうすれば「自由」と「安心」を両立することができますか。

いろんなアプローチがあると思いますが、人生の多くの時間を過ごす「働く場所」が変わることができたなら、そのインパクトは大きいと思います。お互いの自由をリスペクトしながら「利用する、される」ではなく、「いかし、いかされる」関係性をつくれるといいなと思います。

「東京スカイツリー」的に、成果や目的に最短距離で近づくことを考えると、どうしても人を利用価値で判断せざるを得なくなる。営利企業や、使命感の強すぎる社会的事業などでもそうなりがちです。端的に言ってしまえば、人が組織の手段となるのです。戦略や計画がピラミッドの一番上にあって、その下に人の人生がある状態になっています。

僕は、そのピラミッドをひっくり返したい。

成果や目的のために人がある(リザルトパラダイム)のではなく、一人ひとりがのびのびと自分のいのちを発揮して、それが周囲とも「いかし、いかされる」前向きな関係を築けたとき、自然と森は育ち、なすべき形をなしていく(プロセスパラダイム)。そういった植物のような在り方の組織が増え、「原生林」の社会が広がっていけば、「自由」と「安心」を得られる人は多くなると思います。

生産性で測れるほど、人間の「いのち」は軽くない

ー人を一番上にして、その下に事業や会社を置くといった構造なんですね。お話を聞いていて、影山さんは人をとても大切にされていると感じました。影山さんの「人間観」を教えていただけますか。

直接的な答えにはなっていないかもしれませんが、僕には「自分のいのちが自分のものじゃない」という感覚があります。誰かから預かったいのちを、自分が生きているうちになるべく磨き上げて、次の人に渡していくというイメージで捉えています。

自分でこんなことを言うのははばかられますが、自分は、考える力も、コミュニケーション能力も、おそらく他の人よりも優れているところがあるだろうと思います。でもだからといって、僕が偉いわけではない。そうした能力は自分一人の努力によって獲得できたものだとは思わないからです。もちろん僕も僕なりに努力をしてきたことを否定したくはありませんが、同じように努力したとしても、同じ結果にならない人だってきっといるだろうと思います。

例えば、僕の弟がそうでした。学校を出たものの、生産性を求められる社会の力学の中でうまく自分を発揮できずに苦しみ、ずっと引きこもりのような状態になっていました。そして28歳のとき、急性心不全で亡くなってしまった。生前、そんな状況にある弟に向けて、「なんで努力しないのか、なんで頑張らないのか」と、なじるような言葉を投げかけてしまっていたことの後悔は決してなくなることはありません。彼だって本当は頑張りたかったんだと思うのです。

考えていくと、僕は、単に恵まれているだけなんです。自分の努力うんぬんの前に、与えてもらったもののおかげで、頑張れば頑張ったなりの結果が手に入って、また頑張れる。それはとても恵まれたことです。自分が獲得してきたように勘違いしている能力も、実は与えてもらったもの。だったら、その力を自分ではない誰かのために使うことが、僕の生き方なのだろうと。

「あなたはあなたのままでいい」──弟にかけてやることのできなかったその言葉を、以来、スタッフにもお客さんにも、出会う一人ひとりにかけるようにして、お店をやってきました。

お店も経済的な事業である以上、生産性を無視することはできない。でも、一人ひとりが安心してそこにあって、自分を受け入れて、それから少しずつ自分を発揮していく。そういう土壌をつくることができれば、結果は自然とついてくると思っています。

ビジネスの生産性の理屈から言えば、頑張れない人、努力できない人は別の人と置き換えてしまえばいいという話になります。人を、機械を組み立てる部品のように捉えて、よくない部品はいい部品と交換すればいいという人間観です。

でも、いのちはそんなに軽くない。

誰しもが、何かしらの力を持っています。それが分かりやすい物差しの上に乗るものでなかったとしても。痛みや弱さを抱えている人が取り残されることなく、居場所があって、役割があって、自分なりの力を発揮できる世の中になったらいいなと思いますし、自分の力も、そうしたことのために使っていきたいですね。

知的好奇心を刺激し、大人が本気で遊ぶ街へ

ーグッときました…。「いのちの価値を発揮できる人」とは、私たち編集部でいうところの「Beingで生きる人」と重なります。そうした人が増えるためには、何が必要だと思いますか?

「お金の束縛から解放しよう」となると、よくベーシックインカムの話が出てきます。しかし、今、その制度を実施しても思い通りの社会にはならない気がします。なぜなら、努力せず手に入れたお金と時間は、軽んじられやすいからです。更に、お金と時間を前向きに使うために必要な知的好奇心を多くの人が失いかけているように感じています。

そうなってしまった要因の一つを学校教育に求めることもできるでしょうが、教育にばかりその期待を押し付けるのは、大人の責任放棄だとも思っています。まずは自分たちが、少しずつ人と関わって、世界と関わって、遊んで、学んで、自分の知的好奇心を育み、発揮している“さま”を、まわりに見せていくことが必要ではないでしょうか。そのことは、こどもたちにもきっといい波及効果を及ぼします。

そのためにはやっぱり、「働き方」を変えていけるといいですね。現状だと、みんな仕事で疲れ果てて、それを取り返すように、マッサージだセラピーだ、週末のグランピングだとやっています。しかし、そうしたストレス解消法がストレスを生む源を固定化してしまっているとも言える。そもそも、マッサージやカウンセリングを受けないと健康に働けない状況がおかしいんです。

かと言って、仕事はほどほどに、プライベート充実させてと言いたいわけでもありません。働くことのありようそのものが変われば、それは一つの表現機会でもあり、大変でもありながら楽しいものにもなりうると思うのです。

行きすぎた資本主義の力学が、人のいのちを手段化してきてしまいました。だからこそ国分寺では、一人ひとりが自由に、自分のいのちをのびのび発揮できる「原生林」の方法論で、新しい働き方・経済の在り方を実現し、「本気で遊ぶ大人たち」が増えていったらいいなと思っています。

ーどうすれば、そうした大人は増えるでしょうか。

人はやっぱり、人から影響を受けます。すでに好奇心に溢れて活動している人と接することで、その火や熱が移っていくんです。クルミドコーヒーや胡桃堂喫茶店が、火を灯し合う場所になっていったらと思っています。

ただ、一度着いた好奇心の火も、時間に追われる元の生活に戻るとすぐに消えてしまうもの。一定以上の頻度でそういう関わりを持てる、ある種の密度のようなものが大事になってきますね。僕が自分の仕事の範囲を、自分の街に限っているのにはそういう理由もあります。1回の強烈な体験よりも、雑談だったり、思いがけない出会いだったり、小さな関わり合いや弱いつながりの機会が100回ある方が、力を持つのではないでしょうか。

まずは国分寺の街から、原生林を。それなりに田舎でありながらそれなりに都会でもあって、多様な人が集うこの街でそれが実現できたら、日本中で同じような場所を作れるかもしれないですからね。

(影山さんご自身の言葉や、編集部との対談をお楽しみいただける、取材時の生音声はこちらから

[取材構成編集・文] 水玉綾、佐藤史紹  [撮影] 伊藤圭

Beingは、
ひたむきに生きるビジネスパーソンが打ち明けた、
純粋な願いたちを集めました。

人として、組織として、社会として、
本当はどう在りたいか。

組織と事業の成長、取り巻く環境変化のなかで
ときに矛盾や葛藤、経済合理性にもがきながら
彼らがBeing-在り方-を磨いてきた過程とは。

ここでしか語られることのない
飾らない言葉たちを分かち合います。

さあ、本当の願いからはじめよう。

メディア「Being」は
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